大阪市立大学同窓会(全学同窓会)

[論壇] 『故木村元三氏を偲ぶ~業績を辿って~』

論壇『故木村元三氏を偲ぶ~業績を辿って~』

故木村元三さんを偲ぶ~その業績を辿って~  

                                  田仲勇一郎(経昭46卒)

  木村さん! お目覚めですか? 漸く先輩の追悼文が書けました。
 なんせ先輩から引き継いだ書類がいっぱいありましたので、ここ2ヶ月眠る暇がありませんでした。
 令和4年1月4日午前6時に、入居しておられる「エレガーノ甲南」の看護師さんから「つい10分前、午前5時50分に息を引き取られました」と連絡をもらいました。 将に正月三が日のあと。 私が、神戸市東灘区岡本の「エレガーノ甲南」に到着できたのはもう午前9時になっていました。 死因は、老衰。 大正11年6月7日生まれなので満99歳6ヶ月でした。 葬儀の導師には、ご遺言通り、大阪商科大学の恩師である谷口知平教授の教え子の会「八星会」の後輩に当たる、阪急曽根にある東光院萩の寺の村山廣甫住職(法院昭45修)にお願いし、1月6日に葬儀を執り行いました。 そして、本人の遺言に従い、私が喪主を務めさせていただきました。 木村氏は、大阪商科大学予科時代、歴史の教師だった山根徳太郎先生と歴史研究会を通じて昭和19年に卒業後も師弟関係は続きました。 戦前から続く、その歴史研究会の流れを汲む有史会会員という縁で、木村さんから私は「死に水を取ってくれ!」と頼まれた次第です。 奥様の葬儀の際にも私は木村さんから葬儀委員長という立場でご来賓の皆様の前で挨拶をさせていただきました。 もう師弟の関係以上の関係になったと「一日師となれば終生の父」との思いで、今回も、ご親戚、即ち、甥・姪の方々が居られる前で、所謂親族総代として喪主の挨拶をさせていただきました。

 木村元三氏との出会いは、私が大学3回生で有史会の会長を引受けていた昭和44年、クラブ顧問の山根徳太郎先生が難波宮跡発掘をもとに学生社から出した『難波王朝』の出版記念会を開催するに当たり、歴史研究会・史泉会の幹事だった水谷恭三(学昭16卒)さんと木村元三さんから、会合の幹事役を引受けてくれとの連絡を受け、その準備のためご両人への挨拶の時でした。  幸い京都山科の随心院で盛大に執り行うことが出来ました。 この時に、大きなパーティの準備・受付・会計報告までのアレンジとエチケットなどを厳しくとも温かく教えて頂いたのが縁の始まりで、私が卒業してからも、お二人が亡くなられるまで、たとえ海外からでも毎年、近況報告を兼ねて年賀状を送らせて頂いておりました。

 最後の海外勤務から帰国し大阪勤務になったのは、もう平成11年でした。 木村さんから待ち構えられていたように呼び出され、私に『山根先生を偲ぶ会』の幹事を先輩の髙井皓さんから引き継ぐように頼まれました。 それで、平成12年度から「偲ぶ会」の幹事を引受けました。 本年(令和4年)度は、山根先生の50回忌を迎えることになります。 あわせて、木村さんの満百歳を祝おう!と皆で楽しみにしていた処でした。

 この『山根先生を偲ぶ会』は、発会当初から直木孝次郎先生にお世話になり、現在は栄原永遠男先生にお世話を頂いております。史泉会の幹事をしておられた「偲ぶ会」の発起人の水谷恭三さんが、健康に留意されるようになり、お出でになられなくなってからは、木村さんからの提案で、木村さんと長山雅一(文院昭45修)さんと私の三人で、水谷さんのご機嫌うかがいを兼ね、ご意見を承りに参上しておりました。

 こうしたお付き合いの中、平成18年木村夫妻が老人ホーム『エレガーノ甲南』に移られる際、私は木村さんから『身元引受人』になってくれと頼まれた次第です。

 

 元三さん、あなたの業績についてお話し下さい。 どんな人生を送られてきたのですか?

(1) 1982年、和泉市久保惣記念美術館から館蔵和漢鏡の手拓を頼まれた

    (1984年、『館蔵拓影』をMuseum of Fine Arts Boston・Freer Gallery of Artへの寄贈)

 昭和57年、木村元三・文子夫妻が、和泉市久保惣記念美術館より館蔵142枚の和漢鏡の手拓を依頼された。鏡背の紋様を鏡と並べて陳列し鑑賞できるのが目的であったとか。 同美術館は、昭和59年3月『館蔵拓影』発刊に際し、その序文で次のように書いている。 「夫妻は岡村蓉二郎に拓本のことを学ばれ、既に20年を超えて研鑽を積まれていた。 かつて祖父に従って処々の碑刻を訪ねられた氏の記憶が結ばれたことは本館にとっても無上のよろこびでもある。 夫妻は昭和57年と58年の両夏、苦心の作業を遂げられ、奉仕の行為として終始された。 刊行に際して記し、深甚の謝意を表する次第である。」

木村さんによると「この『蔵鏡拓影』なる立派な出版物として日の眼をみることとなり各方面に配付されたことは、私にとって祖父への最高のお供えと喜ぶと同時に益々努力し・・・願わくば、東洋の金石のみならず、ロゼッタストーン、ハムラビ石柱法、オベリスクの手拓まで手が伸ばせるようになれば・・・と『長宜子孫』の銘文に見入る」と語っている。

 昭和60年(1985年)3月和泉市久保惣記念美術館これに続いて『蔵鏡図録』を出版、これら2冊をもって久保惣コレクション中の和漢の青銅鏡144面を紹介するものとした。

 木村氏は『館蔵拓影』を持ってアメリカに赴いてボストン、フリーア両美術館に寄贈し、それぞれ有難い礼状を貰っている。 フリーア美術館からは、このように讃えられている。

学芸員のAnn Yonemura, Assistant Curator of Japanese Art, Freer Gallery of Art からの礼状の中で、こう讃えられている。

“ Dr.Thomas Lawton, Director of the Freer Gallery of Art, was very impressed with
  the quality of the rubbings that you presented on your previous visit.
  It is wonderful to hear that you will also be working on the collection of the
  Hakutsuru Museum.・・・”

 

 (2)1986年4月、恩師谷口知平先生の傘寿に因んで『谷口知平先生傘寿記念文集』

 編集発行 八星会 編集委員長 北川三晴  編集委員長代行 木村 元三

      (八星会の由来)

 『八星会』とは、谷口知平先生のゼミナールにてご指導を受けた旧制大阪商科大学並びに大阪市立大学法学部卒業生の会の名称である。 先生は昭和4年大阪商科大学に赴任され、昭和45年に退官された。
  昭和30年代の後半、先生より私に注文がきた。 ゼミナールの各学年密接に連絡を取り合う会合を全体の会、つまり、縦の会を今の内に作っておいて欲しいとの依頼があった。 世話役は私がやるとしても、名称で苦しんだ揚句、先生の俳号を使わせて頂くことを考え、先生の了承を得て、今日まで「八星会」の名のもとに年々会合を持ってきた。 そもそも「八星」なる名称は先生の御家が酒造業を営んでおられ、その屋号として使っておられたものを俳号とされたと聞いていた。

 八星会の商大時代のメンバーには、昭和8年の滝川事件の後、大阪市長関一の招聘で、商大の講師として、またのちには教授として活躍された恒藤恭、末川博などの諸先輩、さらに同事件の後、立命館大学の学長になられた佐々木惣一先生、それに谷口先生がおられた。 ・・・市立大学法学部が出来てからは恒藤恭先生、西原寛一先生をはじめとして黄金時代と呼ばれるにふさわしい先生がきら星の如くおられ、谷口先生のゼミ生も急増していったと木村氏は語る。

(編集後記)

 「この文集は、谷口先生の傘寿をお祝い申し上げ八星会が企画、編集、発刊しました。 昭和58年の喜寿に当たり、八星会は4月23日(於ロイヤルホテル)の祝賀会の席上、3年後に迎えられる傘寿お祝の文集を出すことが決まり編集委員が選任されました。・・北川三晴編集委員長によって計画を進めておりましが、昨年7月健康を害され、やむを得ず木村が代行致すことになりました。・・・
 谷口知平先生には、眉寿無彊、長生無極なられんことをお祈り申し上げますと共に、皆々様のご健康、ご多幸を併せてお祈り致します。」

 

(3)2000年、平凡社出版『白川静著作集第12巻(月報)』に白川先生との出会いを寄稿

 平成12年平凡社から出版された『白川静著作集第12巻(月報12)』に木村さんが頼まれた寄稿『樸社について』の中で、「私の祖父は、藤沢南岳の弟子として漢籍を学んでいた。 蔵書中に漢籍が多く、『金索』『石索』のような古文字の書もあった。 小学生であった私には異様な本に見えたが、何時の日にか見ることもあろうかと考えていた。」と冒頭にあった。

 白川静先生が平成11年12月に書かれた、日本経済新聞「私の履歴書」での中で、 『樸社』のことについて「この会は、昭和30年から昭和57年まで、ほぼ4半世紀に亘った。 白鶴美術館の中村純一主事から月に一度話を聞く会を設けてほしいと申入れがあった。 主唱者は、古拓本の収集家で、また手拓の名手である岡村蓉二郎氏であった。書家・篆刻家などの同好者10人、はじめは大阪の南森町の岡村氏の自宅に集まったが、のち陳添福氏がいろいろ斡旋をされ、最後には木村元三氏が万事の世話をされた。」と書く。 ここにある岡村氏は、木村夫妻の拓本の師匠で、且つ、我々有史会の先輩に当たる。

 平成17年11月から3か所で開催された『白川静と立命館』展には、「毛公鼎(原拓本)」及び「散氏盤(原拓本)」を木村さんから寄贈されているが、展覧会の資料には、
「台北の故宮博物院が所蔵している『毛公鼎』の展示されている原拓本は、樸社同人によって作製されたもの」として紹介された。 木村さんからは、白川先生と台北に行った時、故宮博物館で数枚取った手拓を寄付したとよく聞かされていた。

 

(4)2002年(平成14年)『あゝ戦没学友』の出版 編集委員 木村元三
       (「学徒出陣戦没者慰霊碑建立の会発起人」の一人として)

 木村氏は、序文の中で「恒藤恭先生の短歌について」をこのように書いている。
 「 『或るは、帰り あるはかへらぬ教え子の ことを想ひて 夜半にさめたり 恭』
 恒藤先生は大阪商大最後の学長であり大阪市大の最初の学長でありました。平和主義に徹しておられ、哲学者土田杏村(土田麦僊の弟)の死後、山根徳太郎先生等と追悼号、全集出版に関与された関係で、昭和22年11月15日の大阪商大の史泉会の招きに応じて卓話をして頂き、かかる短歌をお詠み、したためて下さったのである。」
  恒藤先生は、芥川龍之介の親友であり、先生の1935年11月8日号の「大阪商大新聞」に『詩 学園に題す』を寄稿されている。

 

(5)『大阪人』2007年7月号 連載「大阪ことばを語り継ぐ」第76回としてインタビュー

タイトルは『学ぶことの楽しさを教えてくれた知の恩人たちのこと』
 副題は『大阪商科大学の法学者谷口知平教授、難波宮発掘で知られる山根徳太郎教授、漢籍を読んだり造り酒屋を営む祖父・・・木村元三さんは、大阪が生んだ最高峰の知性に出合い、学ぶことの楽しさを知った』
 本文には
「(道楽も命懸け)
 木村元三氏のお祖父さんは造り酒屋の旦那さんながら篤處の雅号を持つ文人だった。 30余年をかけて大阪に眠る先覚の墓碑を訪ね、墓碑銘の拓本を取り記録に残した。 祖父の時代までは御堂筋を西に入った道修町5丁目で屋号は菱屋、本家は「東風」、分家のうちは「百楽」という名前の造り酒屋だった。 道修町は住まいだけで、酒造りは天満だった。
祖父の家は河内の国三宅村の郷士で、道修町の木村家に養子に来た。 商売は番頭さんがやってくれるので時間もあるし、勉強好きやったんでしょう、若いころに藤沢南岳先生の泊園書院が出来る前の寺子屋で漢籍の勉強をしていた。 郷土の先覚の墳墓を訪ねて、伝えられていた所に墓が無くなっていたら、その行方をきっちりと調べて探し出して弔う。 お墓をきれいにして、その碑文を読んで追慕の念にふける、というのは高尚な趣味の一つやったようだ。 昭和4年浪速叢書刊行会の依頼で『稿本 大阪訪碑録(浪速叢書第10)という背の分厚い本になっています。・・・
私も小さい時分、お祖父さんに付いてあちこちお墓を訪ね、お墓に画仙紙を張って、現地で墨をすり、拓本を取るのを手伝うたもんです。・・・
 私も祖父の影響もあったのか、大阪商大の山根徳太郎先生の歴史研究会の先輩、岡村蓉二郎さんに教えていただいて拓本を取り始めました。」と。

 

(6) 2010年(平成24年)『廣場』(全国寮歌祭プログラムより)上下巻の出版
       発行者 木村元三

 2010年(平成22年)5月21日日本経済新聞「文化」欄に掲載されたタイトル
『ああ、さらば全国寮歌祭』の中に次のように語っている。
「もはや戦後とは言わなくなった昭和41年(1966年)全国寮歌祭は大阪で産声をあげた。 以来、45回を数えて今年5月、寮歌祭は半世紀近い歴史を閉じた。 思えば、よく続いたものである。 今年米寿となる私は、寮歌祭を主催する関西寮歌祭振興会の会長を第37回以来務めてきた。 が、今や最も若い卒業生でも80歳になる。 この間に多くの同志が鬼籍に入った。 何事も始めがあれば終りがある。 昨年の役員会でそろそろ幕引きにしようと決したのである。 寮歌祭は、今年で最後となったが、白線の帽子に誇りを持つ我ら寮歌生の情熱と意気はいまもなお、盛んである。」と終わっている。
第37回から第45回まで取り纏めてきたというのは、大変なエネルギーだったろう。

          * * * * * * *

 以上、木村さんにお会いする度に聞かされていた話を、遺品の書籍や写真集・原稿で確認し、ここに、取り纏めました。 木村さんは60歳で定年してから12年間、神戸の家庭裁判所の調停委員をされていただけに最期まで記憶力はしっかりされていました。 日頃から「99歳まで生かせてくれればいいや、『エレガーノ甲南』みたいな介護付高級老人ホームという、ええ処で居らせてもらうから長生きできたんやな!」「田仲はんにも世話になった。血も繋がらんのに。 ただ先輩後輩というだけで!」と私の前でよく手を擦りあわせて合掌してくれました。 シンガポール人から教えてもらった『一日為師、終生為父』。 私はいつも木村さんに感謝した。 こういう私に育ててくれたんだから。
 昨年6月、満99歳を迎え数え年で百歳になった木村さんは、昨年の暑い夏の日に、東光院萩の寺に八星会の村山住職を訪ねて、「儂の葬式を頼んどくで!」と独りタクシーで行き来されたとご住職からすぐ電話を頂きました。 コロナ禍という中で、昨年10月8日に絞扼性イレウス手術のため入院され、その一か月後、エレガーノ甲南の介護棟に移った。 それで、契約により従来の居宅であった部屋の明け渡しのため、1月を目処に、生前の遺言に従って書籍文物の全てを私の自宅に引取り、整理しているところであった。 特に、山根徳太郎先生、白川静先生から戴いた書簡の束は、大阪市大大学史資料館、立命館大学へ寄贈する予定です。 お祖父さんの著作の生原稿、藤沢南岳先生から戴いた掛軸などは、木村さんご存命中に既に関西大学の泊園記念会に収めております。

最期になりました、木村さん!安らかにお眠りください。
どうか彼岸で、奥様とご一緒に極楽の蓮華の上で、末永くお過ごしくださいませ。

追悼

同窓会報 有恒

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