正直いってこの芝居は何だか分からなかったただそれでいて結構面白かったのも確かである。よく分からなかったのは筋書きが非常にこみ入っていたからであり、作者の意図がよくつかめなかったからでもある。
しかし、それなのに面白かったというのはどういうわけであろうか筋も意図も分かるが、もう一つ面白くないという芝居がある。ということと考え合わせれば、多少は分かるのではないだろうか。
後者の作品が面白くないというのは、作者のモチーフが直線的、図式的に表されていて、芝居としてのふくらみが足らないから、即ち科白に魅力が乏しく筋の展開も単調であるからなのだろう。
とすれば、この芝居の面白かったのは、科白の一つ一つが豊かな意味を持っており(それだけに言葉だけの面白さ、科白としての論理の奇抜さが追い求められすぎたきらいはあったが)複雑なストーリーは人の意表をつくもので、不分明であったが故にかえって興味をつなげていたのではあるまいかそして、それが全体として、あいまいではあるがある種の大らかさを持っていたから、訳の分からないままに観客をひっぱって行けたのであろう。
<かときにおける、ひとつの試み>という副題の通り、この戯曲は確かに正統的なドラマではなく言葉=科白を最大限に使用し、言葉のかもし出すイメージで一つの世界を構成しようとする試みであり、その限りでおいて一定の成果をあげていたであろう。
ただし、昨年の大学祭の「共犯」から本年度独立公演の「自由日本放送」に至る"つのぶえ"の活動(その論理)の一環として、この作品がどのように位置づけられているのか、ということはやはり問題にされねばならないだろう。
「日常性の打破」という作者のテーマは上演された舞台からは出てこないのである。この様なテーマは、やはり現実の抜き差しならぬ状態を否定的に描くことによってのみ可能であろう。
やはりこの作品は詩人でもある作者(文学部3回生岩佐昌暉君)の言語に対する感性と豊かな表現力に支えられた喜劇なのであって、多分"つのぶえ"の方法論とは一応離れたところでなされたものであろう。それにしてもこの作品を演出した垂水君(文学部3回生)はこの難解な芝居に豊かなふくらみを与え、とにかく見るに耐えるものにしている。演技者もかなりの好演であった。全体として、新入生には分かりにくい部分もあったろうが、一応の評価は下し得るものであろう。