演出から |
北島 正 |
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現代の社会に生成した人間が、他人を視点に愁いた行為を行うとすれば、それは孤独というエネルギーによってしかあり得ないのではなかろうか。なぜなら、人間は"他"を認めて働きかける場合、それに先だって"他"を根本的に異なって生成した"我"を認めなければならない。根本的に異なっている事を知った上で、"他"との発展的同一化を求める時、孤独が芽ばえるのだから。人間愛とか、使命感とかいった事から論じ詰めて、行為を導き出す場合も、究極的にその人間を一歩あゆませるエネルギーは、やはりこれであろう。 テネシー・ウイリアムズは、この劇に、トムが観客に向かって、解説者として社会の状況を説明し、実際の劇は、そういった社会となんら心理的つながりを持っていないかに見える一家によって、進められていくという、二重構造を与えている。過去に充足した生活体験を持つ母親は、もっぱら日常生活を個人的に改善する事によって、あの過去への回帰を目ざしている。彼女の行為を支えているものは、肉親愛であろうし、過去への郷愁でもあろう。が、全く個人的(没我的)であって他人を視点に据えた行為とはなり得ない。彼女の抑圧された欲望は、自身の記憶から過去を忘れない限り、絶望に陥る事はない。一方目前に広がる現実に押しつぶされているトムを支えているのは、いつの日かの"遠くはるかなる国々"への旅立ちである。しかし、"遠くはるかなる国々"がエネルギーとなり得るのは、しょせん旅立つまでである。何年間かの放浪は、冷たくこの事を、トムに教える。この時はじめてトムは孤独を認識するのであり、彼にとって現実が意味を持ってくるのである。しかし、この劇は、他の誰よりも非実在的なローラの劇である。ウイリアムズは、この劇において、ローラを限りなく美しく描く。人の幻(エガク)く世界にのみ現れるような、それはある美の典型と言ってよいが、俗的、非俗的といった意味での美しさなのではない。人の認識されない差恥に満ちた孤独が、極限にまで深められた時に現れる。生死を分かたぬ美なのである。認識されない時、孤独は生の意味を持たない生きながらにして死んだ状態である。こういったローラにおそらくウイリアムズは、限りない愛着を寄せているのであろう。しかし、それが意味を持たない以上、ローラはどのように解決されるのであろうか。終幕において、ジムが角獣の角を折った時、ローラは現実に引き戻され、没我的に広がったローソクの炎を消すが、その意味を知ったのであろうカローラの目に、めくるめき世界の光は届いたのであろうか。 |
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| ―パンフレットより― |
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