演 出 偶 感

平塚 匡

<世の中は馬鹿と利口ばかりなり、ただ我一人めくら行燈―――田中正造>
*1*
先年、ある芝居の仲間から「君は……口は笑っているが、目は笑っていないね。上気味だ。」とフッと云われたことがあった。それは、子供が何げなくいった言葉がその人の全てを殺すショックに似ていた。ドキッとした。その時、とっさに、「本当に笑うことがないから……《とつぶやいた様だが、それはほとんど意味がなく、自分の顔の表情がいつもそうなのかという上安を意味していた。そして、日本のあいまいで、あらゆるポーズの象徴たる笑いを支配できぬ自分に腹が立っていた。時折、ポーズがめんどうだ。しかし、自分の体はポーズを択んでいる。この上可解な……いやな感じ。
*2*
<明治の柩>はそうしたポーズをふり切ってしまっている。これは体質だ。宮本研の体質とみる。特に、言葉に表れている主客の明瞭さ、語尾の決まり、論理の立て方などの表現法は、生ぬるい発声法を止めねばならぬ事を意味する。これは我々にとって、一番やっかいな体質への挑戦である。そして、逆に発見したのは、我々が正確に感情やセリフを支配できぬという事だった。
*3*
この作品は<政治の民衆にとっての有効性>を政治家の政治姿勢から描いたとも言えるが、自分はそのことに興味はない。問題は、あらゆるパターンやポーズを振り切って、自己の状況基盤を、とりわけ思想の軸をどこに置くかという検証の素材に他ならない。又、それは<明治>の重さでもある。
*4*
先日、テレビで田中正造翁なの死後56年目の今年になって始めて、足尾銅山の椊林事業と最終防毒処理が可能になったとの報道があった。……これ程の意味のない事はない。ベトナムの北爆記事と変わらない意味のなさである。この一方通行の葬儀の意味のなさ……
*5*
葬儀が祭りになるに及んで、死人は完全に死に人になる。そこで生きている人は、安全な読経の影で酒をくみかわす。乾いた涙の後にはなにもない。それじゃ、一体、今迄流していた涙の実態は何だったのか。死ぬために生きることは易しくても、生きるために死ぬことはそんなに、そんなに難しい事なのだろうか。…… (1967年5月4日)

―パンフレットより―



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