<演劇>から受けとるイメージはさまざまだだろう。ことに<大学の演劇部>となると、イメージの浮かびだしようもないくらいかもしれない。創立以来16,7年を迎える”つのぶえ”ではあるが、現団員の一人一人に役づくりのこと、スッタフの仕事、入部動機と印象など語ってもらって<大学の演劇部>とりわけ、現在の”つのぶえ”のイメでも出してみよう。

佐野 すず子

舞台装置をやってみよう。脚本を読む。ボヤッとしたイメージがうかぶ。侘びしいアパート、裸電球、共同浴場、共同トイレ、臭い運河、屠殺場、何本も立ち並ぶ煙突、幾つもの工場、スモッグに汚れたにぶい空、ジョーとジミー、ジョーとジェフリーのほのかな甘さ……。こんなものを材料に私は乏しい力をふりしぼって"蜜の味"の舞台装置のイメージを出そうとしている。ここの角度はきつすぎるのでは?背景が飛び出しすぎるのでは?これでは狭くて役者が動けないのでは?ああ、そうそうここに窓がいる。ここの壁の色は何色?考えることはいくらでもありそうだ。私にとって装置も演劇創造の楽しい一部門である。

岡田 敏裕

まず、演出によるジェフリーの簡単な説明に始まり、未知なものへの恐怖が薄れるにつれ、たとえどんなセリフにしてもジェフリー何かを出そうとしたり、セリフから離れて自分なりのジェフリーを作ろうとする欲が入ってくる。このように緻密な鋭い観察、豊かなファンタジーによって初めてジェフは舞台で一人の人間となるのである。我々も場は違うにしろ、ジェフリーと同じように、感覚を越えた超自然界でなく、我々の感覚で実証し得る自然界で人間として生きてゆかねばならない。この自然界で美味な空気を味わおうと思えば、誤魔化しのない、人間的な感覚を持たねば駄目である。そのためにはどのような妥協、逃避もせず、純一な気持ちで自己観察すべきであり、又一度は我を忘れる程の夢にも酔う必要がある。どうも僕の考えている人間的な、あまりに人間的な人間は、僕自身とあまりにもかけ離れているのではないか………。

渋谷 一夫

演劇に興味を覚えた中学時代!しかし高校時代は劇を見る機会も演じる機会も得なかった。大学時代は制作、演出、俳優・・・・etc。全てをやってみようと思い劇団つのぶえに入部して小道具の係を賜った。自分で考えるに小道具は確かに地味な仕事であるが「劇はスタッフ、キャスト、のチームワークがあって完全なものになる成立する」それ故スタッフの一員として小道具にやりがいを感じている。今この与えられた初仕事を精一杯にやり抜き"蜜の味"が大成功に幕を閉じることを願う。そして自分もこの仕事を土台にして学生演劇の極限に向かって一歩「今が大切なのだ!!」もう一歩、更に一歩前進したい。

島田 智世

演劇が好きです。演じることが好きなんです。そこでおかしなことがおこります。何故こんな風に限られた時間、場所にしばられたすぐに消え去る舞台に、我々の成果とやらをのせなければならないのでしょうか。演ずること―創り上げてゆく過程―に興味をもつ者が、せっぱつまった状態においこまれ、かなり無責任なことをやりかねない結果にみずからを追い込んでしまうなんて、ずいぶんみじめなことです。記録だけが残るだけ。舞台に上げる必要がどこにあるんでしょうか。私は黙っています。演劇部員である私は、やはり黙っている他に仕方がないのです。
幕が終わったら、私は一体、何をするのでしょうか。

安田 有

人間の神秘性が僕を「つのぶえ」に引っぱっていった。僕の主体性をカモフラージュし、ふわりふわりと空間へおびきよせたのだ。であるなら、その神秘性が彼等と行動をともにした一夜でもろくも瓦解してしまった時、僕にとっては「つのぶえ」が何の意味をも持ち得ないのは当然であろう。更に僕は"「つのぶえ」という状況からはずれた僕"をたえずいやというほど意識せねばならなかったのだ。神秘性というものが人間そのものに由来している時、答えはいつだって簡単なのだ。彼等こそが人間だった。現在の認識からいって僕の人生が一人のピエロの演技であると結論づけられた時、演技の上でさらに演技をくり返すことは無意味であろう。孤独なピエロの運動を今しばらく続けていきたいものだ。孤独からの出発という自分の宿命が孤独を超えた何ものかに発展するのを祈りながら。

菊江 和代

「つのぶえ」まるで何もかかわりのないような存在。私はここに落ち着くことができないようだ。でも他に行くところもない。「つのぶえ」は私のばけの皮をはがしてしまう。私の骨にまつわりついた泥を洗い流してしまう。もう、こんなにむき出してしまった。形はない。だからつかむこともできないし、折って捨てることもできない。だが、色はある。黄土色だ。そこは、砂を巻き上げたような霧でもやもやしている。窒息しそうだ。だれも私を助けることはできない。私はどうにもならない事を知りながら「もう一度泥をかぶせて」と無気力に叫んでいる。

吉村忠幸……………ドーナツ礼賛

ぼくはドーナツがすきです。真中に穴があって、食っていくとそれがなくなる、 あのドーナツがすきです。でもいくらドーナツがすきだといっても、真中の穴までは、食えません。それでもぼくは、ドーナツがすきです。しょせん芝居なんてそんなものです。ぼくの世界では。皿の上にのせて、ながめるにおいては、真中の穴が必要です。でも食うにあたっては、ぐるりだけで十分です。ぼくには、真中の穴まで食えないからです。
なんのことはない、これは、ドーナツにことかけて、自分の行動の裏打ちをしているにすぎない。人を食った話だ。
(パンフレットより)


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