松子の死・その他 | |
岩佐 昌暉 | |
最近、ぼくの周辺で親しかったふたりの男が死んだ。ひとりは(多分)事故で、もうひとりは郷里の街の百貨店の屋上から飛び降りて。ニュースを聞いたときは一瞬ぼくは過剰な感傷に襲われた。彼が生きていたら可能であったかも知れないさまざまな事や、彼が拒否し、ぼくがそのまま、まだ決断なしに受容している日常などが、明確なかたちをとらないままにいっぺんに襲ってきた。 要するに死んだ奴は、死んだのだ。という云い方をぼくはあまり好きではない。〔死者〕はどんな場合でも〔生者〕の方から付与するあらゆる価値や意味づけを無意味なものにするのだが、それでも生きている者はそれをなさねばならないだろうから。 「地の群れ」でも松子が死ぬ。松子の死は、しかし、決して「地の群れ」の状況を、それはとりもなおさずぼくらの状況なのであるが、変えはしない。彼女の死は、ぼくらの思考様式に根づよく残っている一種の〔被害者意識〕のなれの果てなのであり、それ故にぼくたちをまた「地の群れ」の登場人物を告発するものなのだ。松子の死は、ある意味では時代的な死だ。彼女自身の性格や心理とは関係なくひきおこされた死だ。しかし、だからといって、松子をとりまく物質的な諸条件を変えたら悲劇は防げたのでもない。もしぼくたちが、そう云いたかったとしたら、少なくともぼくがそうならば、そう云い切ってぼくは革命家になればいいのだ。しかし松子の死を、ぼくたちが考え、そのことでぼくたちが思想というものの端緒にたどりつくとしたら、松子の死をたんに社会的・経済的な状況のなかに解消するのでなく、それに規定はされるのだけれど、その中で生きていくぼくたちの意識の問題として考えていかなければならないだろう。そして現存するいっさいの秩序や根源的な疎外要因と、みずからとを徹底した敵対関係におくことを、みずからに対して掟のように課し、その掟を生きぬくものの目だけが松子の死の意味にたどりつくことができるのではないだろうか。 (パンフレットより) | |