「地の群れ」 |
―日 常 性 を つ き 破 る も の― |
| 長谷川 秋水 |
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みそ汁を湯でうすめたような日常性は、刻み、刻み、私達の内部を浸食する。ジクジクと、それこそ、リンパ液が管外に浸透するのと同じ様に、日常性の垢は、私たちの内部を蝕むのである。既に、今の私達の内的状況は、取返しのつかぬぐらい、腐っているかもしれないし、―いないかもしれない。そのために、どんなに内蔵の皮がめくれ、はらわたがねじくれようとも、吐き出せるものなら、吐き出していまいたい。 舞台の創造は、いつまでもぬくぬくした、酔い心地でなされるものではない。昨年、私達は同じ「地の群れ」を上演した。昨年の公演は、私達つのぶえに、ある思い余るものを残した。それがどんな内容のものであったにしろ、しばらくの間、心地の良かったことを、私達は拒むことはできない。このあと、ぬくぬくしい情感がいつまでも、まつわりついたのである。 「地の群れ」の伝えてくれた現実は、私達をとらえた。「地の群れ」に中に登場するいくつかの存在は、そのたしかさの故に、私達に、私達の位置を照らしだしてくれた。「地の群れ」の現実という手鏡は、私達を射すくめ、立ちすくませたが、射すくめられた私達は、安堵してしまいはしなかった。昨年の公演以来、いな、もっと前から、私達は、怠けに怠けてきたのではないだろうか。 今年、「地の群れ」では、海塔新田とそこの一青年のイメージを表したいと思う。私は、一方で、彼のイメージを造形化することに努めると同時に、片方で、そのイメージを押しつぶすことに努めてきた。この分裂は、私自身をも分裂させ、キャストの多くもそうさせたようだ。私の分裂症状的演出が、舞台で、どのように効果を生むか。私達の「地の群れ」公演が、原作が私達に一つの現実を伝えてくれたように、一つの現実を、舞台から伝えることができるだろうか。海塔新田という被爆者部落の設定を、作者井上光晴氏の創造方法的実験とみ、そして、そこに、日本人の二重の精神的構造の凝縮をみ、これは私達の内的現実だ、とだけいうのは、ちょうど、日常性に埋む私達が、「中までやられとらん!」とせわしくいうのを聞いて、「俺は中までやられてしまっていると思うヨ」と言い返すことだけのことに似ている。実際にやれているか、やられていないかは、本人しかわからないし、これだけは、他人にもどうすることもできないのだ。 目に見えない原爆の傷は、日常性の網の目をくぐる。その傷の斑点は、私達の内部に根付き拡がり、腐りはじめる。だのに私達の内と外の、この野放図な無気力。ああ、この面倒臭さ。 咳が出る。何かが自分を追い立てているように、咳が出る。「苦しそうですネ」と、善意のこもった言葉がかけられれば、目をつむって、その善意を拒もう。私達が吐き出そうとしているのは、咳という生理的な呼吸ではなく、咽にまであふれでている、体内の汚物なのだ。 吐き出さねばならない。 |
| (パンフレットより) |