「地の群れ」 |
―この存在のたしかさ― |
| 垂 水 健 一 |
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“すぐれた演劇”と呼ばれるための資格はなんであろう。こう問われれば、「そこに人間が生きていること」「そこに時代が反映されていること」とでも答えておけば無難だ。さらに「ストーリがダイナミックであること」と付け加えれば、答えは完全なものになる。しかしこのように数え上げられる項目は結局、劇場から帰る道すがら、「きょうの芝居はよかった。よう分かった」という類のセリフの中に集約されるような、文学的な解釈、もっと狭めていえば、言葉の持つ意味に重点を置いた見方に依拠したものである。こういう見方を私は否定したい。 けれども「人間が生きていること」という考え方そのものはまったく正しい。ただそれを直接セリフの字句の解釈と結びつけようとする考え方は間違ったものだ。 「地の群れ」はその終末に一条の教訓が浮かびあがってくるような”わかりのいい”作品ではない。むしろ、はじめて「地の群れ」を読んだ時、実は私はこの”わかりのわるさ”に感激した。一枚一枚ていねいに書かれた青写真なのだが、どうつなぎ合わせても、建物全体の姿は浮かび上がってこない。しかし一枚一枚の図面の正確さに心ひかれた。 「地の群れ」ドラマとして面白くないという批判はあっても、私はあらためてこのドラマのテーマから話しはじめるという形ではそれに反論することはできない。ここに展開されるさまざまな事件の一つ一つの存在のたしかさにひきかえ、それらをつなぎ合わせるものがほとんど見当たらないからだ。このバラバラな結びつけようのない事件の羅列が、文学的な意味ではないが、テーマとでも呼べるものだ。 脚色の仕事は本来、原作の世界の中にひたり、そこを足場として、原作の細かい字句をはなれ書き出すべきものなのかも知れないが、私たちの場合、原作に感じた、魅力や困難をできるだけそのまま浮かびあがらせる事に努力した。したがって、セリフはほとんど原作の通りとし、時間や場所だけを所々私たちなりに変更した。 原作者の井上光晴氏は第二稿に目を通して「予想していたより良くできています」といった。このセリフ、秀れた原作を十分こなしきれなかった私たちの、せめてものアリバイである。 |
| (パンフレットより) |