愛するものの人間像

西尾 雅一

青春を如何に生きるかと云うことは、恋愛を如何なるものとして自分のものとするかと云うことだと思います。そして青春の生き方如何は、とりもなおさず人の生涯を決定するものなのです。
私達は利己心を持っています。又一方利他心を持っています。勿論両者は同じ段階に位置するものではなく異なった段階に位置します。私達が何らかの行為をする時、つねに利己心から出発します。そしてそれが利己心のままで終わるか利他心との結合の形で終わるか……これが問題となるところですが、私達の青春の第一の課題は、この利己心を利他心と統一せしめるところにあると思うのです。
フェルハードはシーリンを自分のものとする為に鉄山を掘り始めました。しかし十年の歳月の流れるうちに、シーリンを得ようとする行為が水飢饉に苦しむアルゼン市民のために水をひこうとする行為に、統一されていったのです。フェルハードは云います。
「シーリンあなただってアルゼンの人でしょう。《私達がフェルハードの中に見るものは、押しつけがましいイデオロギーでもなければ夢空想でもありません。人間そのものであり、私達の周りに実在する人間の典型なのです。皆様がこの劇を見た後で、「フェルハードって素晴らしい人間だ。《とごく自然に感じて下されば僕としては満足なのです。
―パンフレットより―


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