作者の言葉

遠家 宣昭

この芝居の主題ともいえるものは一口にいえば"自己確立とは何か"という事から出発します。
僕達の仲間では"人間とは何ぞや、己とは何ぞや"などの疑問を口にすることを忌み嫌います。僕もこんな質問を他人に対しても、自分に対しても発しないことを掟としています。大体、解答の解らない質問をするのはプライドが許さないし、それに論理的ではありません。そう、まさに非論理的なのです。そこで僕達は論理にかなったものをまず求めなければなりません。所が僕達の求めている論理なるものがこれまた少し変で自分に対する論理を見出すことより、どうも論理の切れ味の方を先に求めているように思えて仕方がありません。つまりこの芝居にでてくる真悟という学生がそれに近い人物です。だから彼はいつも切れ味のよさだけを気にしていてバサリとやりましたが、その瞬間己の方がやられていたことに気がつかなかったのです。つまり己を知ろうとはせず、己を味おうとしていたからです。 そこでこんどは"己とは何ぞや"の論理的処理をもう一人の学生、岡倉の点から眺めてみました。彼は確かに論理の切れ味などという刹那的なものは求めていません。彼はある着実な人生観のもとに一つの論理を導き、現実に対して極めて合理的な生活態度をとろうとします。しかし、しかしです。彼だって論理の切れ味とは全く無縁とはいえないのではないか。これが書いたときの僕のねらいでもありました。真悟が自殺意識を己のテコにしたのなら、岡倉は階級意識を己のテコにしたに過ぎない。どちらもまだ何よりも自己証明がほしかったのです。ただ舞台にのせるときは、岡倉の自己証明を有効に真悟のそれを無効にしたく思いました。脚本を書いた僕自身は同じ割り切るのなら、岡倉のようになれ、ドライになれと、自分に言い聞かせていますが、しかし、やはり"この世界の奥の奥で統べているもの"これはいったい何だろう?と解答のない質問がいつも頭にチラついてきます。
―パンフレットより―


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