「雷雨《について |
吉本 洋一 |
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愛しあった二人は実は異父兄妹でした。二人の間にはすでに子供まで生れかけていました。 二人が愛しあったことに当事者はなんの責任もありません。宿命的な糸が彼らをそのような関係に結びつけたのでした。二は肉親相姦の事実を知って自殺するのです。これがこの劇を流れている甘い旋律です。 しかし作者の曹禺はこの二人を結びつけた宿命的なものの背後に当時の中国の社会と人間を描きだしています。この劇の破局はこの劇に登場する主要な人物の一人一人が自らつくり、準備し、そして構成したものなのです。宿命的なものは超自然的な色彩のものではなくむしろ人間的であり、作者はことさらに人間の弱さを求めているようでもあります。 近親相姦は文明の開けた今日ではそれほど悲劇的な要素は持っていません。だからこの劇の悲劇性は薄らぐのではないか、疑う人もいます。しかしこれは近親相姦に悲劇性を求めようとする考えから出たもので、この劇の悲劇性はむしろ近親相姦以外のところに存在するのですから、この疑いは些細な問題に対するものとなりましょう。 この劇に登場する人物のなかでもっとも純粋な人物といえる人間に対しても、私達はそのままその純粋さを受け入れることはできません。またもっとも個性的な女性に対しても、またもっとも忍従的な女性に対しても、たとえ彼女こそがこの劇で運命の残酷さを人一倊経験する女性とはいえ、私達は無条件に同情するわけにもまいりません。彼女たちはあまりにも弱かったが故に復讐に燃え、あまりにも娘を愛しすぎたのではなかったしょうか。 人間は孤独であることを怖れては人間同士の信頼を保ちえません。孤独は感傷ではなく主体性を意味するのです。主体性のない人間同士の信頼なるものほど妥協的なものはありません。 この劇に登場する人達はすべて、孤独なかで問題解決の方向を見出そうとしないのです。孤独をおそれ、狂熱とエゴイスティックな愛情によって孤独から脱れようとするのです。現実の複雑な様相を観るならば人間は当然孤独にならざるをえません。彼らは現実の複雑な様相を観ようとしなかったのでした。彼らは当然運命という形でその罰を受けねばならなかったのでした。人間の生き方についてもこの劇は様々の興味ある問題を提出することでしょう。 |
| ―パンフレットより― |