「雅歌」のムード |
吉本 洋一 |
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この劇に登場する主な人物のなかで、フランソワ・荒井が殺人という最も重い罪を犯している。「罪は絶望である」と云うキュルケゴールの言葉で解するならば、もっとも深い絶望を背負っている。ということになる。現代の実存主義作家の作品にはよく「社会道徳からみれば、躊躇なく犯罪者と目される」
という主人公が登場する。「雅歌」もまたそうである。 牧師坂口は美子を自殺から救うという名目で彼女を妾にするという罪を犯している。美子は妻子ある坂口と肉体関係を結ぶという罪というより彼女はフランソワとの恋に敗れ、芸術から見離されていくあわれな女性であり、彼女もまた自分の絶望を感じている。弓子は彼女の父親がスリであったように彼女は本能的なスリの常習犯人である。 だからこの劇の背景は絶望という暗い画面でつつまれている。それぞれの人物は絶望を前にして立つのである。絶望を前にして人間は生きるのである。坂口は神の救済を求めることにより、美子は「女になることにより」彼らは生きるのである。美子もまた神の救済を求める。彼らの愛には自己の主張というものがみられない。自我の主張は愛そのもの生そのものを破壊してしまうのだから。神と運命の側に彼らは従順であろうとする。フランソワは神の救済を拒否する。悪魔的な絶望に自己を発散させようとする。フランソワは純粋だ。ここで弓子だけが別の人間になる。彼女は本来的に異教徒である。異教徒には神の観念が欠けているから、罪についての真の観念が欠けているのであろう。坂口は彼女に罪の意識を教えようとするが、あまりにも彼女は異教徒でありすぎる。 現代の実存主義が神を否定するという反抗を企てているのであるが、そのためには絶望と斗わなければならない。そして彼らは極限状況に身を置こうとする。彼らはその状況のなかで反抗する。 絶望を背にしてこの劇は進行する。 だが、矢代静一は神の救済に服する坂口や美子を、ことに坂口をカリカチュアライズしていない。彼らが絶望からの救済を神に求めたとしても、彼らが背負わされいる奇妙な運命の側から、彼はこの二人に同情もよせているのである。この劇の複雑さはこんな処にあると思う。 絶望が死への誘惑の掌をさしのべても、死もまた休息と諦めの救済を意味するものではないか。「現代作家は、不条理と孤独に生きるにしろ、とにかく生きようとして、生きなければならない人間の努力を論じている」とアルベレスは強調する。幕切れに弓子が絶叫する言葉がなによりもこの劇を美しいものとする。 |
| ―パンフレットより― |