欲張りの弁 |
| 阪本雅信 |
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演出・装置・音楽―何ンと欲張ったものだと人に笑われる。まだまだ照明も舞監も演技もやりたいが、それではスタッフが失業して気の毒だから・・・・と言い換えしてやると、誰でも開いた口がふさがらない。言いたいことは山ほどある。あえて欲張りの弁とする所以である。 ♦『怒りの夜』はレジスタンスを主題にしている。稽古に入る前、その社会的背景にを知るため、訳者道井・鎌田両氏、仏文学助教授の加藤先生を煩わしてお話願ったり部員一同も談合を重ねた。このような劇では各の意思の交換が特に必要である。成る程やってみれば世界観の相違もあって議論沸騰して、一時は収支のつかなくなったこともあった。レジスタンスの意義――現在の日本の政治的・社会的環境――再軍備論そして我々のとるべき立場―。『フオスタ*大佐の朊罪』の失敗の一原因であった「劇の背景の理解上足」という轍を繰返さないために。その点では確かに有効であった。しかし稊々頭でかっちの観念論に走って行きづまった感があったようだ。サラクルーにしても単なるアジテーションに終わらせているのではない。ぼくは政治的でも思想的立場でもなく、芸術家としてこれを演出したかったのである。 ♦多くの方々が御協力下さり感謝している。地元の訳者道井・鎌田両氏はもとより上京の際快くお会い下さり、その上プログラムに執筆を引受けて下さった『抵抗』の著者・淡 徳三郎氏、東京で『怒りの夜』を上演した七曜会の新島氏、就中道井氏には終始御手数をおかけしたものだ。又今回程多くの激励の便りを頂いたこともなかった。御礼の言葉と共に方々の御志しに応えるべく更の精進を誓う。 ♦部員諸君もぼくの我儘をよく許してくれたものだ。加えて経営事務の負担も除かれ、ただ創造面にのみ専念すればよく、ぼくは恵まれていた。それにも拘らず、自分の無力を知ることにしか日々の成果を持たないとあれば、まことにすまないことだ。企画・編集・渉外に彼ならではの活躍を示す関口兄、経営の労を黙々と励む池田君、頼りない演出の顔色を窺いながらベストをつくすスタッフ、キャストの人達。欲張りの罪深さに謝りたい人ばかりである。 ♦演出とはかくも体力を要するものかと改めて見直した。前回ズブの新入生のみで舞台を創った関口の労苦が思いやられる。今回はマシとはいえ経験僅かに一度。皆涙ぐましい努力を重ねてくれたが、それでも学生演劇の通弊ながら、演出という吊のもとにぼくのした仕事の大部分はそれ以前のものだったようだ。だが何ンと楽しいことだ。この公演はぼくが学窓に残す最後のものとなるであろうが、例え失敗に終っても後に続くフレッシュな人達の伸びゆくのを見るだけで充分満足なのである。 ♦台本の一頁一頁に紙を挿んでみたものの未だに何も書き込んでいない。 おそらく白紙のままで終ることだろう。稽古の合間に大道具を値切りに行き、オルガンに向い、広告のデザイン迄する。「好きな××も絶って・・・」とよく語られるが好きでやっている芝居なんだから文句の持っていきどころがない。蓋し我身は小躯であった。今までどおりに装置だけしておれば、どうやら自他共に罪はなかったようだ。欲張りとは確かに大罪の一つであった。(1954・4・27) |
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| (パンフレットより。一部省略) |
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