"つのぶえ"創造的文化運動への提言

―大阪市大新聞1963年4月25日発行 特集『演劇』より―
この原稿はわれわれの出したパンフレット「創造的文化運動への提言」を編集部の求めに応じて改編したもので、われわれの基本的理念を明確にし、あわせて文化理論の提案となしたものである。この原稿には垂水・天津・吉田・岩佐・安西が参加し、全員の基礎的討論を経て、各自が記述したものを垂水・安西が検討し、最終的に安西がまとめたものであり、文責はこの両人が負う。
「共犯」で明確化した立脚点
(1)昨年までの"つのぶえ"はいわゆる社会主義リアリズムの確立を標榜し、その追究ということで活動を続けてきた。
(2)われわれが「セールスマンの死」をとりあげたとき、われわれはまだ不明確ではあったが、それ以前のいわゆる芝居造りの作業が、舞台的効果を最高のものにするために一番有効なものであるということに疑いをもっていた。
従ってこのときの芝居造りのプロセスは、それまでの感情移入一本槍の誤ったリアリズム(舞台を造るには感情移入と自然主義的手法とが必要であるとする)に対して、アンチテーゼとして提出されたものであり、舞台の雰囲気をつくり、演劇そのものを盛りあげるためには、かっての"つのぶえ"では 邪道とされていた<外側から役者の演技を決定する>というようなことも含めてあらゆる手法がとられた。われわれの総括では、この時期はまだわれわれの理論と立場は明確とならず、俗流社会主義リアリズムからの脱皮の時期―すなわち、われわれの理論と方法と立場とを明確化する時期にいたる過渡期であった。
(3)次の「共犯」のときわれわれはインテリの戦争体験とその責任の論理化の帰結として、共犯のメカニズムをえぐり出しそこに生きるわれわれの態度を摘発しようとした。方法的には、舞台は一種の様式的演出で行われたと同時に、また、集団創作を実際的に推進し得る基盤を作り出した。この作品でわれわれの立場と理論、方法がようやく見透せるようになった。
(4)現在練習中の「自由日本放送」はこれまでの二つの演劇の総括の上に立って、われわれの理論と方法とを大胆にぶっつけようとするプランを持っている。自己の立場をあいまいにし<大衆><科学的探求>というような言葉をかくれみのとして用いるのではなくわれわれの知っているかぎりのことを最大限に発揮したいと思う。
なお、特筆すべきことは、この作品が最終的には作者の手を経ているとはいえ,数人の者の手が、単にアドバイザーとしてでなく、作者と同じ基盤で参加したことである。助言者や、批評家として協力するのでは、作者と同じ発想に立って、作者と同じ作者と同じ役割を果たし得ること―これは集団創作にかなり近づいたとわれわれは自負している。そしてそれは、個々の主体を不明確にしたもたれ合いの協力とはおよそ全く逆のことなのである。
活動を支える変革への意識
音楽には音楽のもつ論理があり絵画には固有の論理があるように、演劇には演劇の論理があるはずである。だから一つの演劇を創り出す<協調>が日常的な単に素朴な人間としてのつながりによって生みだされたものであればそれは決して、芸術的な協調にはなり得ない。目の前に突きつけられた問題を、演劇の論理で追求していくときに、創造する個々の人間が意識するとしないとにかかわらず、サークルのの中に生み出されてくるような協調をわれわれが演劇を作るモメントとして考えているのである。
しかし、演劇の論理と呼ぶものが「こうこうこういうものであります」と言えるものではないだろう。 ただ具体的な話として言うなら、脚本の時には問題にもならなかったライトのあて方一つに重要な意味を見出したり、俳優の小さな動きの中に作品を理解する鍵を見付けたりするように、戯曲を読む時よりも、劇場で上演される演劇を見るときの方が、はるかに複雑なものの見方を要求されることから考えて、ほとんど文学として、一元的な意味しか持たなかった作品が、一旦上演されると実に多元的なものになるのである。
一人一人の人間が集まってはいても、参加する主体はバラバラに単に集団として、何かをやると言うだけではなしに、多元的ではあるが、最終的には一つである目標に向かって、自分は作品の一つの細胞にすぎないが、全体としては大きな意味を持つものだと言う。主体的な協調がわれわれの活動の大きなエネルギー源あろう。
また、われわれが演劇をやる場合、それへの近づき方にも色々なかたちはあるが、基本的には、演劇が現実に対して何らかの力を持っており、それが社会変革に少なからず寄与するという考えが、その行動を支えている。しかし、漠然とした願望形で一つのサークルが活動を続けることは不可能である。従って、当然の事ながら、"つのぶえ"には"つのぶえ"なりの活動の基調のようなものがある。とりわけそれは、演劇の可能性を信じることからきている。
演劇が、単に多人数の形式的な協調によって作られる、寄り合い所帯的な芸術ではないということを信じることである。
問題提起の可能性もつ芸術
しばしば論議されたことであるが、芸術は政治に従属するかどうかという問題がある。
公式的な見解を述べて、芸術は政治に従属するとかしないとか結論を出しても仕方がないと思う。何故なら、論争する以前に<文化>と呼べるものが枯渇しているときに、そのような論議が先行してもどうにもならないと考えるからである。われわれの立場は、一応直接に政治スローガンをう呑みにしてそれを分かりやすく説明するというような意味では、政治に従属してはならない―すなわち、芸術はそれ自身、少なくとも、誰の指示を受けることなく、問題を見つけ出し、現実に対して、問題を提起できるのだ、というくらいの自負はある。
政治と文化という問題を考えるとき、まず語るべき<文化>がなければならない。演劇をやろうにも劇場さえないような文化状況の中で、単に趣味的な娯楽でしかない文化の氾濫している中で、数少ない真面目な活動を槍玉にあげてそのイデオロギーをうんぬんするより前に、文化は政治に従属するなどとほざく者は、まず素直に、せめてまともな文化を育成するような条件を作り出すために努力してほしいというのが、そもそもわれわれの考えなのである。
しかし、現実的にはなかなかこんなことさえ受け入れられていないのである。秀れた一つの作品を作り出すことによって、それが現実に力になり得ると信じることもわれわれが常に考えていなければならない。
提起の中で主体への還元を
われわれが演劇活動を行っている以上、常に観客というものを考えていなければならない。現実的には、われわれの観客の大半は学生である。しかし、われわれは単に受身的に学生層をわれわれの観客としてとらえるのではなく、どういう部分として学生層を位置づけるのかを明確にしておかなければならない
一口に学生と云っても、個々の生活や意識状態は多種多様である。しかし、われわれは"つのぶえ"の観客をプチブルインテリ中の意識的な部分として捉えることにする。そして、さらにわれわれの主要な対象は、それらの中にいる<前衛>であるが、われわれが<前衛>という場合、それは<自らの認識で自らの生活状態をとらえ、それを社会関係の中で考察し、自己変革を行いつつ社会変革を志向し、自己の生活の場で積極的に活動している人々>を指すのである。それはわれわれ自身もまた、かかる<前衛>たらんとしており、われわれが単なる演劇愛好者の集団ではない以上当然のことである。
対象設定そのもの中に、われわれ自身をも含め、対象に働きかけること自体がわれわれに対する働きかけとなるような姿勢―ここにわれわれが学生演劇の独自性を主張し得るのではないだろうか。
明かでない「大衆」の意味
<大衆>という言葉が至るところで氾濫している。曰く「大衆的ではない」「大衆はそんなものを要求してはいない」「大衆の実態を歪曲している」など。しかし、<大衆>とは何なのか、ということが明らかにはされない。ある場合それは市民であり、また国民でありまた盲目なる虐げられた労働者を指す場合もある。
しかも奇妙なことに、人がそのようなことをいうとき、彼は自分の主体(その立場と姿勢)を少しも明確にはしてはいないのである。大衆という言葉をあたかも自分が大衆の代表ででもあるかのように語る彼は、一体何者なのか。彼が「大衆はそんな高級な芸術は分からないし、またほしがってもいない」というとき、彼は自らを大衆というかくれみのの中に隠しているのだ。
われわれは敢えていおう「少なくともわれわれは労働者ではなく学生でしかあり得ないのだから。われわれは学生という生活実態を論理化し、はっきりその立場に立つ所からしか行動し得ないのだ」と。そして、仮にわれわれが大衆や労働者と連携しようとするときわれわれを彼等の一員として仮想するのではなく、学生の立場を明確にすることによって、その限界を認識しながら連携しなければならない。
かかることを抜きに学生が大衆というとき、それは大衆を美化することによって自らの大衆コンプレックスを表明している以外の何者でもないのである。自己を固定化し、対象を自分のところまでレベルアップすれば、それでいいのだいうような<汲み上げ方式>からは何も生まれてはこない。
目的意識の顕在化から出発
組織(サークル)論―自らの変革を志向する<前衛>たらんとするわれわれの集団は、まず個々の構成員が、各の生活を踏まえ、社会的視野に立って自分の目的意識を明確にするところから始まるそれは学生である自己を論理化するということであり、主体の立場と位置を明確にすることである。
そしてこのことは単に集団内だけではなく、我々が一つの演劇集団として活動する際にも適用されなければならない。すなわち、<大衆演劇>というようなあいまいな表現に頼るのではなく、学生が演劇する集団として自己を想定し、自分たちの限界の中で現代の状況に切り込もうとする姿勢―状況の中から自立することによって、状況の全貌を把握し得る透徹した認識を持たねばならないのである。そしてそのことによりわれわれは状況変革の主体として自己の行動に責任を持ち得るのである。
もとよりわれわれの組織は大衆組織ではないし、単に多くの公演活動を行うことのみを目的とするものでもない。したがって、われわれの活動は他の演劇活動と異ならず、サークル活動として留まるかも知れない。その限りにおいてわれわれの行為は徒労に帰すかもも知れないが、いまわれわれ強いていわゆる大衆演劇を志向しようとは思わない。
方法は創作欲
われわれはまず問題点を集団的に討議する。そのうち、そのモチーフが最も成熟したものが草稿を書く。集団で討議する。集団的改稿。そして脚本ができあがったとき、われわれはそれをどのように「演劇化」するのか。われわれは単に既成のドラマトゥルギーによって行うのではない。どのように表現するか、何を表現するか、の過程で必然的に決定されて来る。スタニラフスキー(スタニスラフスキー)システムやブレヒトの叙事的演劇論などの理論を、われわれの都合によって修正するのではなく、自分たちの表現を見出そうとしなければならない。
このような方法において、われわれの状況認識や目的意識が「作品を作る」という芸術衝動となって一つの作品を結晶するのである。すなわち、個々の創造意欲の多様性を軸として、それをアンサンブル的に広めながら、段階的に高めるという方法を取っているのである。
―以上、われわれは現在の状況の中で、インテリゲンチャ芸術前衛としての自己の立場を確立し自らの創造意欲を軸として、共通の目的に向かって活動していくのであり、その際、あらゆる演劇作法(ドラマトゥルギー)を自己の方法として、われわれの主体的条件を通じて、舞台の上に表現されるのである。



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